私達の教育改革通信
第 94号 2006/6
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技術革新競争の行方
菅野礼司
日本の経済界をリードする経団連の新会長になった御手洗冨士夫氏は、キャッチフレーズとして「イノベーション(技術革新)日本」を掲げました。科学・技術が政治・経済まで動かす時代にあって、世界の先進国に期して「科学技術立国」を国策とする日本に相応しい目標だと、多くの人は肯定するでしょう。経団連の会長としては当然の目標かも知れません。しかし、今日の技術革新の急速なテンポと止まるところを知らない開発競争に対して、かねてから疑問を抱いている私は、果たしてこれでよいのだろうかと思います。
現代では、情報、交通、物流の手段が高度に発達し、地球上を縦横に結んでいるので、政治、経済、文化の面でも、地球を一つに括るグローバリゼイションは必然のなり行きで、避けることはできないでしょう。それゆえ、問題はグローバリゼイションのあり方であって、そのシステムの仕組みと、その進む方向だと思います。
ところが、今の経済のグローバリゼイションは、アメリカを中心にして、自由経済の下での「市場原理」で進められつつあります。規制のない資本主義における市場原理は、弱肉強食の競争であって、強い者は勝ち組としてますます強くなり、弱者を駆逐していきます。この競争レースに巻き込まれて走り出したら、負ければ落伍者となり終わりです。そのレースに参加できない国は、ますます落ちぶれていくでしょう。これが市場経済原理で推し進められるグローバリゼイションの現状だと思います。
日本はそのレースに参加し、先進国に期して負けないように一生懸命にひた走っています。グローバリゼイションの下では、発展途上国もこのレースに参加して来るので、何時追い越されるか分かりません。前も後ろも油断できません。日本のように国土が小さく、資源のない国は、そのレースで落後しないためには、常に技術革新を行い、経済発展を続けなければならないというわけでしょう 。
しかし、このような激しい競争はいつまで続けられるでしょうか。規制なしの研究開発をすれば、科学・技術は指数関数的に発展します。それに連れて、経済活動も同じように活発化するでしょう。今の開発ペースでは、人間生理の適応能力が環境変化についていけません。これでは人類の自滅です。
いまさら言うまでもなく、地球は有限であり、資源、環境保全も限界があります。だいぶ以前から、これについて警告が発せられています。このまま開発が進めば、後100年などといわず、10年、20年で地球環境にはカタストロフィックな急変が起こりそうな予感がします。近年の地球環境の異変はその予兆ではないかと思えます。そうなってからでは急ブレーキは効かないし、方向転換は不可能でしょう。
環境破壊を救うのも、科学・技術ですが、その方面の研究開発よりも、金儲けのための技術開発の方が優先されるのが、資本主義社会の市場原理です。技術革新によって、消費エネルギーを節約し、機械の小型化で資源を節約できますが、その節約量を上回って次々に新しい物が造られ消費されています。冷蔵庫・テレビやパソコンがその典型です。次々に新機能を備えた新型機器が売り出され、使い捨てられていますから、かえってエネルギー・資源の消費は増えています。
便利な生活環境で育ち、それに慣れた人間は、その便利さが当たり前と思って、さらに便利さを求めます。何か問題が起こらなければ、この連鎖は止まるところがないでしょう。
技術開発による新技術の発明は仕事の能率を大いに上げますが、多くの場合は、逆に新たな仕事を作りだし社会全体の仕事量を増やします。便利さを求める新技術は社会の活動力を高める潜在能力をもちます。それゆえ、便利な新機械だできると、それがなければなしですむ余分な仕事を作り、関連産業を生みます。複写機の発明はその例です。それまでなくとも済ませたものをコピーし、ファイルが急増しました。その結果、事務量の増加、、紙の大量消費、紙屑処理といった負の効果を生みました。コピー機は携帯電話などと併せて情報公害を作りました。
これまでの経験で、便利な物ができても、人間の一日の労働時間は減りませんでした。ロボットの進歩は人間の労働を軽減し、労働時間を短縮するのではなく、生産量を上げるためにだけ利用され、人間の余暇をあまり増やしてくれませんでした。日本ではむしろ労働時間は延長しています。過労死はいぜんあとを断ちません。
したがって、ある一つの技術が開発された場合に、社会全体への波及効果を多面的に分析し、定量的に評価することと、その方法を定式化することは、環境アセスメントとならんで、技術論の重要な課題です。
世界中が、開発競争をしている中で、日本だけそのレースから抜けることはできないでしょう。でも、このままでは人類は早晩破滅します。イノベーションを日本の目標にするよりも、開発競争をひた走る現状を変える政治を提唱し、世界をリードすることを目指すべきでしょう。
無理のない「持続可能な発展」を指導原理とする政治・経済の理論とその運動がが求められます。
心にも栄養を!
増井容子
ギターが好きで夢中になって練習しているうちに、気がつけばいつの間にか講師をしていた。やがて30年にもなるだろうか。その間にギター音楽の世界も、生徒の様子もかなり様変わりしてきた。
そのせいでというわけでもないが、昨年から日々思うことを「Day by Day」のタイトルで、ブログに綴っている。先日、菅野先生から、音楽を通してブログに書いているような記事を、投稿して欲しいと依頼され、何かお役にたてるならとお引き受けした。
先日NHK教育テレビの「トップランナー」に出演したチェロ奏者、趙静さん、(北京生まれ、5歳から中国でチェロを学ぶ。高校から日本とドイツに留学。昨年行われた第54回、ミュンヘン国際音楽コンクール、チェロ部門で優勝、さらに聴衆賞までも受賞)がこのように語っていた。
「音楽に大切なのはイマジネーションです、ドイツに留学したとき森を見て、ドボルザークの「森の静けさ」を弾くイメージがグンと膨らみました」と。
それは樹々の息吹、鳥の声、風の音や水の音、それら自然界から学び取れるものを、見て、触れて、音を聞き、はじめて作曲者が伝えようとしたことを、肌で感じることができたということだと思う。
私はホームページの冒頭に「音楽が心に栄養を与えてくれます。心にも栄養を!」と書いているが、音楽の体験と学習が感性を高めるのに最も身近だと感じているからだ。
人は与えられた五感すべてを駆使し、自然の中から美しいものを美しいと感じ、感動できる感性を持っている。その感性がさらに磨かれると、宇宙の神秘を悟り、争ったり危害を加えたりすることがいかに空しく、失うものが多く、得るものがどれほど少ないかを知る。大自然には無限の感動があり、イマジネーションを膨らませることができれば、どんな苦境に遭遇しても、生きる希望と意欲が沸くであろうと常に思っている。
イマジネーションを大切にするという趙静さんのこの言葉は本当に奥が深い。現代の日本社会では、このイマジネーションを持てない子供が増えている。そういう教育をしてきた、われわれ大人にも責任の一端はあるが、自分の行動がどのような結果を招くのか、また今何をしなければならないのか、想像できず感性の眠っている子供が多い。こどもばかりか、大人までもが鈍ってしまっている。
今、自分には何ができるだろうと考えたとき、せめて私は音楽を学ぶことで、イマジネーションを膨らませ、人生を謳歌し困難にも打ち勝てる心を養ってほしいと、これからも自分自身の感性を磨きながら、ささやかな努力を続けてゆきたいと思っている。
社会人となったZ君への苦言
木村善保
Z君、お便り拝見。君の毎日が生き甲斐に満ち、歓喜一杯である半面、様々に苦しみ、悩んでいるありさまも文面から想像出来る。君が自らの意志と能力で、激烈な採用試験を突破し、使命感を持って現在の仕事をライフワークとして、数ある職業の中から選択したことに老生は敬意を表したい。有能な溌剌とした新人が仲間として入ったという、君の上司からの言葉を仄聞し、老生心から満悦している。
近頃、老生の周囲にも若手新人が充満し、活気横溢の態しきり、さりながら炉辺談話では「どうもヴェテランの先輩諸氏は不親切だ。何を尋ねてもろくに教えてくれぬ。「君は採用テストにもパスした一人前だ。我々も若い頃、同様の問題で困りながらも、それぞれ苦労しつつ解決してきた、君も少しは自分で勉強しろよ」と冷たい態度でとりつきようがない、と不満顔。一方先輩諸公に云わせれば、「最近の若い者はかわいげが全然ない。丁寧に指導しても、感謝の挨拶すらせぬ。」といったことになる場合がしばしばである。Z君、ここで老生が日常考えたり、感じたりしていることをまとめ、君からの質問に対する回答としたい。参考になれば幸甚である。
1.勤務の方法を可及的速やかにのみこむこと。
職場にはそれぞれ独特の勤務態様があるのは当然。さあれ、職業人としての基本的服務事項や、エチケット等は概ね同一だが、その職場独自の習慣もあるし、それが特色となっている場合もあろう。よく調べ、よく聞いて一刻も早く、職員の一人として、業務推進のためのエネルギー源たるべく努めること肝要なり。
2.言動は若者らしく明快に。
礼儀正しく、服装・髪型も端正にすること。職場は生き生きとし、常に清新の気が漲っていることが望ましい。「元気の根元青年職員。モラルの象徴管理職」の気風が欲しい。君たちの挙措動作は注目されているものだ。「みんなもやっている」の台詞は最も卑怯。自分が満足な挨拶もせず、だらしない態度で、その上遅刻の常習者ときては、他をあげつろうこと自体笑止千万。率先して範たる姿勢を堅持せよ。
3.分からぬことは上司・先輩によく聞き、謙虚な態度で指導を受けること。
早合点が失敗に連なるとすれば愚かなこと。聞くは一時の恥。虚心坦懐、素直に指導を乞えばよい。先輩諸公は文字通りその道のヴェテランだから喜んで面倒を見てくれる筈。下手に一人で悩み、書物を繙いたり団栗のような同輩と議論したりするのも必要だが、よい意味で先輩を利用するのが上策であり、能率的でもあろう。先輩にしてみても、たよりにされれば、満更悪い気もしまい。なお、自分の出来ることは少し位いやなことでも進んで引き受けよ。
4.「仕事の実力」をつけるために精を出すこと。
業務遂行のための知識・能力・意気込み・根気等所謂実力がないのでは話にならぬ。「実力」のあることは絶対であり、それが即ちよい職業人なのである。そのための業務研究や資料収集には入念に時間を費やし、「このことなら何でもこい」の気概が必要。但しよく解らぬことについて苦しまぎれの悪足掻きは大禁物。傷ついた兜はあっさり脱ぐ率直なフェアプレイ精神も大切。
5.健康に留意し、体力保持・増強に
心掛けること。
これは言うまでもない。最後の勝負はこれで決する。好事魔多しと言う。酒・女・博打等にのめり込み、深入りすれば足が抜けなくなるのは当たり前。厳重注意すべし。
Z君。以上老生の所感、旧師ということで説教調ご寛恕あれ。君こそは「シャロンの野花、谷間の百合(旧約聖書雅歌)」、職場に光明を掲げ、清風を吹き送る選良とならんことを。切に期待してやまぬ。百事可楽。安康順愉。 (教和会報18/1/1より抜粋)
西洋の絵本色々20
アルプス地方の農家の
暮らしと子供
高橋理喜男
農村の子供は都会の子供とは違って、農家の暮らしや仕事で、ある一定の役割を果たしているものである。そのような役割に焦点をあてて子供の生活を描いた数少ない絵本の一つを紹介したい。美しい自然環境のアルプスの山々に囲まれて暮らしている農家の1年間の生活が描かれる。
この地方の農家の主な生産的活動は、一つの畑の耕作と、もう一つは牧畜である。秋から冬の間は牛や羊を屋内で飼うが、彼らに干し草を飼料として与える仕事が兄のヤーコブと妹のアンナに課せられる。もちろん生まれたばかりの子牛の面倒はヤーコブが引き受けている。パパは牛乳を搾って、それをミルク工場まで運搬する。自家用牛乳からのクリーム、バター、チーズ作りはもっぱらママの仕事。
初夏になると、高知牧場は牛や羊を連れて行く。おじいさんがそこの小屋で家畜の番をしてくれる。一方、畑仕事の方は、厩肥を畑や草地へ運んでやるが、これはパパがやる。自宅前の菜園の植え付けや種まき、手入れや収穫はママとヤーコブの仕事だ。夏は1年を通して最も多忙な時期で、家族総出で農作業が行われる。一つは麦の刈り取り脱穀であり、もう一つは、採草地での干草作りだ。出来上がった香りのよい干草は納屋や高地牧場の見張り小屋に収納される。
秋の大切な仕事として欠かせないのはベリー摘みだ。ママは子供たちを連れて、高山地帯のコケモモと、もっと低いところのブルーベリーを摘みに出掛ける−シロップ煮やジュースやマーマレードを作るため−。そのとき一緒にキノコ狩りも行う。
その頃になると、家畜を連れて畜舎へ戻ることになるが、そのためにパパとヤーコブが手伝いに昇ってくる。暖かい小春日和を見はからって、羊の毛の刈り取りが行われる。刈り取り台に乗せてバリカンで刈り取っていくのはパパであるが、その前にママが中心になって大きな桶にお湯を入れ、羊をブラシで洗ってやる。
長い冬の間、パパは山には入ってもっぱら木材の伐りだしに携わる。丸い丸太を溝に沿って山の下へ突き落とし、さらにトラックターで林道まで引き出し、トラックに積んで製材所まで運搬する。一部は暖炉用のマキにする。
このように、山の農家は一年を通じて次から次へと仕事が続き、時には骨の折れる仕事もある。しかし、ヤーコブはパパとママの仕事を手伝いながら、まったく別の暮らし方をしてみたいと思ったこともない。一方、ここは冬のリゾート地となっているので、スキーやスケートといった楽しいウインタースポーツもあるし、夏はパパと一緒に、氷山のある高山へ昇る楽しみが待っている。そして、毎日の生活が豊かな自然に包まれていることだ。
『生きて死ぬ智慧』を読んで
菅野礼司
『生きて死ぬ智慧』柳澤桂子著、堀文子画(小学館)、を読みそして観賞した。柳澤さんは、生命科学の研究で立派な業績をあげ、将来を嘱望されながら、原因不明の難病で倒れた。死闘ともいえる35年以上の闘病生活の中で、サイエンスライターとして、また歌人として活躍し続けたそうである。
この本は「般若心経」の心を、自らの科学的自然観に基づいて解釈し、美しい言葉で表現したものである。
死の苦しみの中で掴んだ自然の本当の姿を、そして到達した自然観・人生観を、「般若心経」に重ねて歌い上げたこの言葉には計り知れぬ重みと深さがある。強い感動と共感を覚えた。
まず、「空」について、次のような呼びかけで始まる。
“ひとはなぜ苦しむのでしょう・・・
ほんとうは 野の花のように
わたしたちも生きられるのです
もし あなたが
目も見えず
耳も聞こえず
味わうこともできず
しょっかくもなかったら
あなたは自分の存在を
どのように感じるでしょうか
これが「空」の感覚です“
これを受けて、宇宙の真の姿を、「般若心経」の心に照らして、現代科学の言葉で説いていく。(文字色美しい詩の形式で書かれているが、要約して抜粋引用する)。
“すべてを知り、覚った方に謹んで申し上げます
宇宙に存在するものには五つの要素があり
これら構成要素は 実体をもたないのです
感覚、表象、意志、知識もすべて実体がないので
す
これらの要素が「空」であり、生じることも
無くなることもなく、汚れることもなく
きれいになることもないと知ったのです
宇宙では形という固定したものはなく
実体がないのです
宇宙は粒子に満ちていて、粒子は自由に動き回り
形を変えて、お互いの関係の安定したところで
静止します
形あるもの、いいかえれば物質的存在を現象として
とらえていますが、現象は時々刻々変化する
変化しない実体というものはありません
実体がないからこそ形をつくれるのです。実体がなく
変化するからこそ、物質であることができるのです“
この宇宙観は、現代物理学の宇宙論と物質観によく調和している。
この宇宙の中で、一定不変なものは何一つなく、粒子は生々消滅によって相互に転化し、粒子の離合集散による展開を永遠に続けていく。その過程で宇宙は、ビッグバン以後、極微の境域から膨張し発展進化してきた。この宇宙観は、近代科学の宇宙観、すなわち力学法則に従って機械的に運行を繰り返す機械論的宇宙観から脱皮した、現代科学の進化的宇宙観である。
すべての粒子はエネルギーとエントロピー(秩序性・乱雑性を表す量)のバランスで安定な結合状態を一時的に作り、いつかそのバランスが崩れると分解する。このように宇宙の中のすべての現象には定めがない。
しかし、その物質の運動変化は、一定の法則に従っていることを、人間は見出した。なぜ、一定の自然法則があるのかは、人間にはまだ分からないが、この発見は人間の素晴らしさである。
それにしても、人間はなぜ自然法則や自然の仕組みを知りたいと思うのであろうか。そしてまた、なぜ自然法則や仕組みを知りうるのであろうか。それはもっとも不思議なことである。
人類は昔から、物質の究極要素、つまり不変実体を追求してきた。だが、その究極粒子と思った原子も構造を有し、素粒子に分解されるし、さらに素粒子もクオークからなることが分かった。さらにその下の層にサブクオークがある可能性がある。
物質の階層は、下にも上にも限りがあるのかないのか、その答えはまだ分からない。物質粒子の下の階層に限りがなければ、明らかに不変実体はない。階層が有限で止まっていても、それは不変の粒子ではないだろう。それは何か超物質的なものの励起モードかも知れない。たとえ、それが粒子出会ったとしても、原子−素粒子−クオークが、それぞれの階層のレベルで相互に転化するように、不変ではありえない。
それゆえ、物質の本性は、常に運動変化を続ける実体のない存在といえる。
“お聞きなさい
あなたも宇宙の中で、粒子でできています
宇宙の中の 他の粒子と一つづきです
宇宙も「空」で、あなたという実体はないのです
あなたと宇宙は一つです
宇宙は一つづきですから
生じたということもなく なくなるということもありません
「空」という状態には
形、感覚、意志、知識もなく 心の対象もありません
実体がないのだから
物質的存在も、
感覚も、概念を構成する働きもありません
“
一人一人の人間は「小宇宙」であり、その小宇宙と全自然の「大宇宙」とは、互いに照応しているという自然観は古代からあった。そしてさらに、一つの微粒子の中に全自然の存在は投影されていて、自然界のすべてのものは、互いに反映し合い一続きであると。これも全宇宙は一つであるという一種の自然観である。
人間も粒子(原子・分子)からできていて、その粒子は全宇宙を飛び回っている。あなたの身体を作っている粒子のいくつかは、遠い恒星からこの地球に飛んできたものかも知れない。
まさに「生成流転」、「輪廻転生」である。
現代科学によれば、すべての物質とそれを構成している粒子は4種の基礎的相互作用(力)によって、互いに影響し合い結ばれている。でほど遠い物質の間にも重力は働く。相互作用を通して、全宇宙の物質は一続きであるというばかりではない。現代物理学のもっとも基礎理論である量子力学によれば、相互作用のある粒子は、どれほど離れていても互いに関連した状態(波動関数)となり、不可分な量子状態にある。これを「量子力学的不可分性」という。このように、全宇宙は一続きである。
すべての現象は、これら粒子の運動・変化の形式・状態(モード)である。感覚や意識の働きも、知識もすべてその自然現象の一つのモードであるから、実体はない。
“真理に対する正しい智慧がないということもなく
それが尽きるということもありません。
迷いもなく、まよいがなくなることもありません
「空」の心をもつ人は
迷いがあっても
迷いがないときとおなじ心でいられるからです
真理を求める人は
間違った考えや無理な要求をもちません
無常のなかで暮らしながら、楽園を発見し
永遠のいのちに目覚めているのです
深い理性の智慧のおかげで
無上のほとけのこころ ほとけのいのちは
すべての人の胸に宿っていることを覚ることができました
このように 過去・現在・未来の三世の人々と
三世のほとけとは永遠に存在しつづけます
深い理性の智慧もまた
永遠にわたって存在するということです “
感覚も意識も、また知識も自然現象の一つのモードであり、人間も自然の一部である。すると、自然の仕組みを解明し、自然の真理を知ろうとしている人間の営み、つまり「自然科学」も自然現象の一つの形態でる。私はかねてから自然科学を
「自然科学とは、自然自体が、人類を通して自らを解明
する自 己反映(自己認識)活動である」
と考えている。
自然科学をこのように見ると、自然が自らを解明するということからして、自然科学は自己言及型の論理となる。自らのことに言及すると、「嘘つきパラドックス」(私は嘘つきである)のように、矛盾や決定不能な命題が存在する。それについてゲーデルの不完全性定理がある。
ゲーデルの不完全性定理によれば、矛盾のない自然科学は不完全であり、解答できない問題(説明できない問題)が存在する。それを解決する(説明できるようにする)ために、新たな仮説を設けて新理論を築いても、その理論が無矛盾である限り、また別の解答不能問題が現れる。こうして、自然科学は永遠に完結せずに、永久に探究をつづけることになる。それは同時に、自然科学は無限に発展し続けることを意味する。 人間が人間自身を知り尽くすことができないように、人間は科学によって自然を解明し尽くすことはできない。
(詳しくは『科学はこうして発展した』せせらぎ出版、または『科学は自然をどう語ってきたか』の終章、ミネルヴァ書房、を参照されたい。)
人類はどんなに頑張っても、自然の外にでることはできない。まして、どんなに科学が進歩しても、自然を制御し支配することなどできない。すべては「お釈迦様の掌(自然)の中」の現象である。
“それゆえ、ほとけの智慧は
大いなるまことの言葉です いっさいの智慧です
その真実の言葉は
智慧の世界の完成において次のように説かれました
行くものよ 行くものよ
彼岸に行くものよ
さとりよ 幸あれ
これで智慧の完成の言葉は終わりました“
現代科学に基づく、この宇宙観や自然観については、私も物理学や科学哲学の研究を通して、多くの点で同じようなことを考えていたので、共感するところが多かった。
しかし、柳澤さんの言葉は、自然科学の研究からのみでなく、死闘ともいえる闘病生活の末に到達したもので、その心身から溢れ出た悟りの言葉であろう。したがって、私のように頭の中で考えたものとちがい、それだけの深さと重みがある。
水木鈴子「詩画集」
(海野記)
小淵沢から東へ5,6キロほども行くであろうか、小海線からそう離れていない田園と森の中に、点点と絵本やおとぎ話の館がいくつかある。その一つ、水木鈴子花の美術館にある日迷いこんだ。絵や詩の世界は、好ましくはあっても、全く縁のない世界なので、水木鈴子さんがどういう人なのか全く知らない。水木さんの水彩の花を見ていると、明治の末期、跡見花蹊に日本画の手ほどきを受けた私の母、高橋みつ(当時)が女学校の卒業制作に描いた絵を思い出した。写実的な美しい花の水彩画が夢のような背景の中に浮かんでいた。その一つ一つに、十行あまりの詩がついている。宇宙自然の中に育まれたいのちを唄った詩である。母なる地球をいとおしむ心がある。近くへお出かけのときは、立寄ることをお奨めする。「すすき」と題する絵(暗くなった夕空に小さな満月が懸かっている、それに向かって、何十もの白いすすきの穂が風に吹かれてなびいている)についている詩を、一つだけ、引用する:
いっせいに波打つ白い穂を
平等になでるのは風のやさしさ
“夢の舞”明るさを演出するのは月のやさしさ
夏が終わり秋もふけ
父さんすすきは木枯(こがらし)から
母さんすすきをかばいます
よろこびも哀しみも背で受け止め骨となっても
決して姿を崩(くず)しません
我が子の一人だちを見届ける初夏のころ
そっと土に還(もど)っていきます そっと・・・
(編集 菅野礼司)